作ったゲームお知らせブログ(サイトA出張所)

がんばってゲームを作ったのでお知らせするブログだよ。みんなにも楽しんでもらえるといいなぁ。

ゲーム制作日誌再掲:2019/04/21 より

■ 制作日誌再掲:2019/04/21 より(http://www.site-a.info/text/2019-04-21_0.html

マインドルの対戦パート作成

学園モノと言えばマインドルのペアバトル。



ペアバトルと言われても、何だかわかりにくいですね。
何がわかりにくいかと言えば、キャラの表示位置を躊躇なく重ねているという大胆かつ斬新なレイアウトのため、
「ペア」であることを理解するには、それなりの見識が要求されるという点です。さぁみんな、ついて来れるかい?
しかもこの赤い人、長髪の上にマントなんか羽織ってるもんだから余計に後ろが見えないじゃないですか。

右側がプレイヤーチーム。
主人公氏は立ち絵がないのでこうなります。「ペア」という言葉の先入観にとらわれない、これまた斬新な仕様。
この画面だけを見てペアバトルだと認識するのは難しいかもしれませんが、実際には文章がつきますので、
みなさまの日頃から鍛えているイマギナティオーンを発揮して、文脈から察していただければハッピーに存じます。

プレイヤーチーム側はまだしも、左側の敵チームの表示のデザインについては、この斬新さはキミたちには少し早すぎるかもしれませんので、
手番が交代するたびに位置を入れ替えるようにはしておきました。私は本当に慈悲深いですね。



ちなみに、誰の番なのかもわかりにくくなってしまうので、「現在の手番」を表示するようにしました。
SFMLの四角形オブジェクトに文字を載っけただけという虚飾を廃した機能美の極致。
手抜きをしようなどというつもりはほんの少ししかありませんよ。


こちらは相手側が一人で、プレイヤー側だけペアバトルのパターン。



実際のプレイ感覚としては、相手側はペアだろうが単独だろうが、あんまり変わらないですね。
でもキャラごとに別々の設定のAIを持っているので、元気があれば棋風に特徴をつけることができる可能性にひらかれております。希望の明日へ。

で、自分の側が「ペア」になっていることのプレイ感覚はどうなのかと言う話ですが、
一言で言うと、例のアレです。なかなか面白いですよこれは!!

なにしろ、思い通りに指し進められないというのが、意外なほどドキドキです。
自分が前進させた駒を、次のターンでパートナーに元の位置に戻されたり。お気に召さなかったのね。

パートナーのAIが強い設定の場合と弱い設定の場合で、それぞれ別の味わいがありますね。
強い設定にしたパートナーに「詰み手順が見えたぞ!」みたいなことを言われて、でも全然わからなかったり。
間違えたら申し訳ないなぁ、と思いながら指す緊張感。
弱い設定にしたパートナーがヘボい手を指しまくるのも味わい深い。いかにしてフォローをしていくか?
「おいおい、そっちに行くのかよ〜」などと画面の前で言い始めたら、そこはもう現実と虚構の境を超えたワンダーランド。
さぁ、キミは無事に帰って来ることができるか?!


はい、そんなわけでペアバトルのモードが実装されましたとさ。
こんなに楽しいモードをもうすぐプレイできるようになるなんて、あなた方は本当にラッキーですね。

あっ、そういえば投了ボタンをつけておかないとマズイのかな。
すっかり忘れてました。
なければないでいいんじゃないですか? どうしても、ってときはウィンドウを閉じればいいじゃない。
とは言うものの、それも少々アバンギャルド過ぎて世間の理解を得られないかもしれませんので、
元気が余ってるときを見計らって追加するかもしれません。

さしあたりは、これにて特殊モードの機能は実装できたのかな? どうもそうらしいですよ。よかったのう皆の衆。
次の一手問題」のシーンがあるんですけど、どうしようかな。選択肢モードの一種ということで、多分イケるでしょう。
じゃあ、あとはもう、どんどんスクリプトに落とし込んでいくのみですね。わき目もふらず突っ走ろう。投了ボタンのことも忘れて突っ走ろう。

何か他になかったかな。何か忘れている大事なことがあるような気がしてなりません。
たとえば前世で生き別れになった恋人の生まれ変わりを探すこととか、エンディングのムービー的なものを用意することとか、AIの改善のこととか。

AIのことは結構心配してたんですよ。恋人の生まれ変わりの行方と同じぐらいには。
ですが今まで作業をしてきた感触によると、今のままでも充分イケますね。
キャラごとに戦法というかスタイルの差をつけたいと思ってたんですけど、ぶっちゃけ、わかんないと思うんですよ。
簡単なのでもいいかな? 最初の数手だけ必ず一定の手を指す、とか。
手軽に実現できそうな案を何か思いついたらそのとき考えるとして、今は本文に出てくる対戦イベントを全部実装してしまうのを先としたい。
なんなら、リリースした後に、自殺するまでのスケジュールの合間をぬってバージョンアップの一環としてヤレばいいじゃない。うむ。
ともかく今は体裁を整えて「完成」と言い張れるようにすることを目指そう。おぬしもワルよのぅ。



ところで話は変わって、「空気」の話。
それが実際のところ何なのか、というのは甚だ不明ながら、それでいて「空気」という言葉があるということからも、
何かそういうものが存在するようだ、という共通認識はあるようです。

それにしても、うまい比喩ですね。「空気」という表現。
誰が最初に言い出した、というのは調べればもしかすると特定の有名人の誰それが記録にある中では最初、
みたいなことは言えるのかもしれませんが、実際のところはむしろ、
誰からともなく言うようになって定着した、ということなような気がします。まさに「空気」のように。

目には見えないけれど、どこに行っても確実に存在していて、私たちを一様に包み込んでおり、逃げ場はなく、依存せざるを得ない。
「空気」に逆らって生きるのは、まさに「息苦しい」ことです。


結局のところ、この「空気」ということを抜きにして、この世の仕組みを理解することはできないような気がいたします。
外面的には人間がそれぞれバラバラに存在していて、たまたま近い距離に集まっていて、人が集まるから(暗黙的な)ルールもできて……
というようなことであるように見えたりもしますが、むしろ話は逆なのかもしれない。
まず「空気」ありき。
個人が先にあって、その上に世間が覆い被さっている、というののではなく、
まず「空気」が先立っていて、その個別の虚像として、それぞれの人体が浮かび上がっている。
「本当はそんなはずはない」とは思うのですが、
それぐらいの心づもりで向き合わないと、迷路に迷い込んで抜け出せなくなってしまう。
何しろ、目の前に「独立して思考する主体が存在している」という前提は、いつだって裏切られるのです。

「空気」の中では、「理性的に考えて正しいこと」が正しいのではなく、
「空気」に一致していることが「正しい」ことになる。
「空気」に一致しないことは、いくら「理性的に考えればそれが正しいはず」のことでも「間違った」ことになる。

「理性的に考えれば明らかにおかしい」はずのことが慣行としてまかり通っており、
しかし、いくら噛んで含めて言葉を選んで人に話しても、どうしても話が通じない。
それどころか大多数の人たちから寄ってたかって批難される。
そして「理性的に考えれば明らかにおかしい」慣行が、相変わらず続いてしまう。
そういうことってあるはずです。

「空気」は単に外面的な行動を縛るだけではなく、おそらくは思考の内容までも規程してしまう。
おそらくは、そうした「空気」を代弁する人々にしても、わりと本気でそう思って、そのようにしている。

で、こういう場合、言論の力を信じる立場からは、
みんな心の奥底ではわかっているのだけど周囲の目を気にして本音を出せずにいるんだ → 根気よく真実を語ればいつか伝わるはずだ、
というような信念があることと思いますが、
それがかなりの高頻度で裏切られる、というのが実際のところではなかったか。現実を虚心坦懐に見れば認めざるを得ないものがある。

「たしかに私も個人的にはその通りだとは思うし、残念だとは思っているけど、でも仕方なく……」
と、実は多くの人が心の中では思っている……
と、期待したいところではありますが、おそらく実際には、そうではない。
「おかしな慣行」に従っているそのとき、嘘偽りなく、その通りに信じ込んでいる。
少なくとも「空気」通りの「おかしな慣行」を擁護しているまさにそのときは、そのように信じ込んでいる。
"意外と" それが実態なのではないのか?
そして、時流が変化した場合には「実は俺も前からそう思ってたんだよ〜」と、これまた嘘でもなんでもなく、しれっと言う。
決して見栄を張って言うのでなく、心の底からそう思って、そのように言う。
"意外と" それが実態なのではないのか?

こいういう実態に対して、「理性的に独立して思考する主体」という人間観を前提とした言論活動の、いかに無力であることでしょう。

ところで「空気」の「気」つながりで「気功」ってのがありますよね。
アヤシゲな自称武道家みたいな人が「気」の力、と称して手に触れずに弟子を投げ飛ばす、みたいな。
弟子の人が「先生」に向かって威勢よく飛びかかって、「先生」が軽く手をかざすと弟子の人が、これまた勢いよく後ろ向きにすっ飛んでいく。
傍から見るといかにもワザとらしくて滑稽にさえ見えますが、あれも多分、多分ですけど、やってる方は本気なんですよ。
騙そうなんていう悪意があって演技をするのなら、もっと上手なやり方がありそうなものです。

これも一種の「空気」なんじゃないでしょうか。
弟子と先生の「信頼関係」のようなものがあって、「先生が手をかざしたんだから、弟子たるもの、おとなしくすっ飛ぶべし」
などと明確に意識しているわけではないでしょうし、明確に意識しておらず、無意識レベルで「信じて」いるからこそ、
演技でもなんでもなく、「実際に」すっ飛ばざるを得ない。
そこにはそのような「気の流れが」があるのであり、それが見える人には見えていて、見えるからには逆らえない。
まさに「空気を読んで」いる。まさに「気」の力と言う他ありません。
波動拳をくらって「うわぁ〜」と言っているストリートファイターのみなさんは
「空気の読める」人たちってことですね。無敵技ですり抜けるなんて大人気ない!

こういう「気」の伝統というものが、東洋的な文化の中で現代まで伝わってきているというのは
なかなか興味深い気がいたします。おっと、「気」がしたとは、これまた。
多分、昔は、そういうのが「本当にあった」んですよ。
「ヘビに睨まれたカエルが身動きが取れなくなる」というような、野性的な感性と言えばいいでしょうか。
今以上に生々しい日常的な現実として、人間からは「気」が出ていて、その他の山川草木や森羅万象からも、何らかの「オーラ」が出ていて、
人々は何の疑いもなく、そういうものが「あるもの」という日常をリアルに生きていた。おそらくそういう時代があった。

しかし「理性的に独立して思考する主体」には、そのような「気」は見えません。
まさに「空気が読めない」ってやつです。
時代が現代に近付くにつれ、人々が個別に理性的に思考するようになり、「空気」は「見えにくい」ものにはなってきた。
それでも、依然として、なくなったわけではない。
むしろ「見えにくい」分、余計にその影響力が大きくなっているとも言える。

今でも「気」というものは間違いなく「ある」のですよ。
たとえば山道を歩いていて、しめ縄が張られた場所があったとして、その先に進む気になれるか?
私はちょっと、無理な気がします。頭では「別にどうってことないじゃん」と思いつつも、足が進まなくなりそうです。
これも要するに、アヤシゲな自称武道家の先生の手かざしと同じことなのでしょう。
結局、私も吹っ飛んじゃってるんですよ。レバー1回転で吸い込まれちゃってるんですよ。



> 外面的には人間がそれぞれバラバラに存在していて、たまたま近い距離に集まっていて、人が集まるから(暗黙的な)ルールもできて……
> というようなことであるように見えたりもしますが、むしろ話は逆なのかもしれない。

たとえば「経済学」では「合理的に利益を追求する経済人」のような架空のキャラクターを想定して、
そういう架空のキャラクターたちのふるまいとして、世間の動きを理論家しようぜ、ということだったりする(らしい)のですが、
これも結局、迷信ですよね。
そんな人間はいない。

しかしそう言って経済学者の先生たちをバカにもできません。
私だって「人間は独立して思考する存在だ」などという迷信を信じ込んでしまっている。

どうやら「空気」の力を無視するわけにはいかないようです。
なお、これは「人間は "空気" に影響されてしまいやすいものなのだ」というようなことですらない。
このように言う場合は、あくまでも実際には独立した個別の人間がいて、
その上で「空気」というなんらかの非理性的な影響力があるぞ、ということですが、
これでは依然として「人間とはそれぞれに独立して思考する存在だ」という迷信の親戚です。

そうではなく、むしろ「空気」の方が先立つ存在である、というふうに考えるぐらいで、ようやく釣り合いが取れるというところではないか?
実体は「空気」であり、個別の「人間」は幻想。
人間が個々別々に存在している「ように見える」かもしれませんが、あくまでも実体は「空気」の側にあり、
個々別々の「人間」は実体としての「空気」の個々別々の表れ方。マニフェステーション。あるいはインターフェイス

こんな世界が現実だとすれば、実に不気味な話です。
こんなはずはない。これが「人の世として正しい」とも思えない。
しかし、「目の前に "独立して思考する人間" が存在している」と思っていると、いつだって足元をすくわれるんです。

じゃあこの世界には「人間」はいないのか?
いや、いる。いないわけではない。断じてない。確実にいる。
確実にいるんですよ。たとえばあなたとか。ほらね、いるじゃないですか!!!!!!!!!!!!!

そこにあなたがいるじゃないですか〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!1111

はい、ビックリマークだっていつの間にか全角の1になってしまうというもの。
それぐらい確実で、なおかつ衝撃的な事実ということです。

そう。間違いなく「人間」はいる。
いつまでも「はどぉけん!」とか言われて、素直に「う〜ぁ〜」とか言ってる場合じゃない。

だからつまり、なんだかんだ言っても、人間を否定しては、「生きている意味がない」ってことです。
私がいる。あなたがいる。あの人がいる。その人がいる。ほらほら、いるじゃないですか。いるじゃないですか〜〜〜。
そしてあなた方の幸せを願う。生きてるってそういうことでしょう?

では、じゃあ「空気」とは何なのか?
「空気」が人間を殺す。みんな、吸っちゃダメだ! 今スグ息を止めるんだ! うぐぐ!
しかしもう遅い。誰もが腹一杯「空気」を吸い込み、人間は死に絶えてしまった。
そういう現実がある。
ここから出発するしかない。人間が死に絶えた廃墟の中、あなたを探す旅に出る。


それにしても「空気」ですよ。これは相当に重大なことですよ。
何かふわっとしたあいまいなもの、なんてもんじゃない。我々が生きている「この世」とは、とどのつまり「空気」のことです。
そう言えば宇宙には空気がないのでした。そう、地球とは我々が生きている世界のことなのでした。ようこそ、ここは空気の世界。

そこに確実にあって、我々を一様に包み込んでいる、目には見えないもの。
重大でありながら、しかし、つかみどころがない。
あるのか、ないのか?
あると言えばあるし、ないと言えばない。

いや違う。逆だ。

あると言えば「おまえの被害妄想だ。病院に行け」などとバカにされ、
ないと言えば「そんなんじゃ世間に通用しないぞ」などと説教される。

思い込みが具現化している、というよりも、逆の力が作用している。
こっちの方が厄介です。なぜかと言えば、自分の意志ではドウショウモナイからです。

「あるから気をつけよう」という呼びかけは不首尾に終わり、
「ないんだから気にしないでおこう」という心がけも潰される。
ドウショウモないデッドロック
あなたを探す旅はどうやら前途多難のようですよ。

一体全体、本当に、この「空気」というやつは何なのでしょう?
ここをクリアしないことには、何をどうしたってドウショウモナイ。
いくら「正しい」ことを言っても、「空気」に反している限りドウショウモナイ。
いつの日か「時代が変わる」ことはあるのかもしれません。
しかしそれも結局、「空気の流れ」でしかないんじゃないですか?
そこは果たして人間が存在する世界であるか? 「実は俺も前からそう思ってたんだよ〜」とか、どの口で言ってんだ。このやろ〜。
「言論の力で根気よく訴え続けてきたから」というのも結果論でしかないような気がします。おっと「気」とは、これまた。

今はただ、あなたが幸せであってくれることを願うばかりです。

 

(再掲ここまで)


「学園棋神伝マインドル」完成版は以下のページで盛大に愛を込めて公開中ですヨ〜。

↓↓↓ www.site-a.info

ゲーム制作日誌再掲:2019/04/13 より

■ 制作日誌再掲:2019/04/13 より(http://www.site-a.info/text/2019-04-13_0.html

マインドルの対戦パート作成

学園モノと言えば口出しマインドル。



AI同士の対戦に回数限定で口出しするモード。
「先輩じゃ勝てません! 俺も口出しさせてもらいますからね!」みたいなシチュエーション。
なお、「先輩」というのが右の人と左の人のどちらのことなのかは乞うご期待。

着手の前に毎回「これでいいかな?」との確認があり、「ダメ」を選択するとプレイヤーが代わりに一手指します。
口出し回数を使い切ると、あとはもう見守るだけになるというハラハラドキドキの手に汗握るモードです。

ストーリーの都合上、こうならざるを得ないので、面白いのかどうかは問わずに、ともかくシステムを実装してみましたが、
なかなか面白いですよこれは!
特に、口出し回数を使い切って、見るだけになってしまってからがエキサイティングです。「頼むぞ〜」みたいな。
見るだけになってしまうというのが、だから面白くないんじゃないのか、と心配していたのですが、
見るだけになってしまうからこそエキサイティングというのが新発見。
AIの思考処理が遅いときがあるのも、手に汗握って見守る分にはプラスです。
高速で手の応酬が続くときもあり、スーパーサイヤ人のバトルを見てるみたいで、それもまたよいものです。

バランス調整には気を遣うところですね。
一回も口出ししなくても勝ててしまうようでは意味がないですし、どう口出ししても負けてしまうほどAIに差があるようではゲームになりません。
多少、運まかせになるぐらいでちょうどいいのかな。
なにしろ回数を使い切ったあとの「頼むぞ〜」が思いのほかドキドキなのでビックリです。ドキドキしたりビクビクしたり忙しい。


> 見るだけになってしまうからこそエキサイティングというのが新発見。

最初から最後までただ見るだけではなく、途中で何回か口出ししているからこそ、
自分が口出しした側に肩入れして真剣に見守る感じになるのだろうなと思います。

これはアレですね、だからつまり選挙のときは投票に行くのがエキサイティングだぜってことですね。え、そんな話になるんですか。



そしてさらに、候補手からの選択モード。



AIが考えた候補手の中から選択して進めていくモードです。
わざわざ別のモードを実装しなくても、こっちも口出しモードってことにしてしまえばいいんじゃないの? と思いつつ、
本文ではこうなっているので、誰が本文を書いたんだコノヤロ〜と言いながら実装してみたところ、
上記の口出しモードとは感覚がかなり違うゲームになりますね。

まず、バランス調整の目指しどころが違う。
口出しモードの場合は、AIの強さ設定は「味方 < 敵キャラ」で、その差を回数限定の口出しでいかに埋めるか? ですが、
選択肢モードの場合は、AIの強さ設定は「味方 > 敵キャラ」ということにしておく。
強さについてはストーリー上では逆ということになっているのが気になるところではありますが、
こうしておくことで、提案される候補手の中に「正解」が一つは含まれるハズ、ということになります。
それをプレイヤーが的確に選び続けることができるかどうか? というゲームになります。

つまり、一言でまとめると、なかなか面白いですよこれは! ということです。

久々のプログラミングが楽しすぎて、鼻血が出すぎて死ぬかと思いましたが、頑張って実装した甲斐があったというものです。
こんな面白いゲームをもうすぐプレイできるようになるなんて、良かったのう皆の衆。

惜しむらくは、せっかく面白いモードなのに、ストーリーの都合上、上記のモードでプレイする機会があんまりないことです。
オマケモードを用意してこのモードで遊べるようにしようかな。惜しむらくは、そんな元気がないかもしれないことです。

選択モードの候補手として何を表示するかについては、現在検討中。
とりあえず今はAIの「次の一手」を取得する関数の結果プラス、ランダムに2件、を表示しているのですが、これがベストかどうかはわかりません。
たとえばAI評価の上位3件、とかの方がいいかもしれません。よくないかもしれません。
「正解」が明確すぎるのも果たしてどうかと思う一方、上位3件にすると、どれを選んでも大差ない、みたいなことになってしまいそうです。
そのへんは追々調整することとして、ともかく今は作業を進めますよ。

あとはペアバトルを実装すれば、特殊モードはカバーできることになります。
これというのも本文の人が後先考えずにシチュエーションを用意してくれたおかげ。
そのおかげで、もうすぐ面白いゲームをプレイできるようになるのですから、あなた方は本当にラッキーですね。


それから、マウスを乗せると半透明になる機能も実装しましたよ。どうやら少しだけ元気が余っていたようです。


残念ながら服だけ半透明ではなく立ち絵丸ごと半透明です。
これがベストなソリューションかどうかはさておき、こうしておけば最低限、駒台が隠れて見えなくなる事態は回避できますので、
一応レイアウト上の問題は解消ということで、立ち絵のポーズ具合は気にせずに突っ走りますよ。
しかし立ち絵丸ごと半透明になるというのも、あんまり見栄えがよくありませんね。一瞬バグかと思ってしまいそう。
何かもっとスマートな解決方法があるといいのですけど。
やはり服だけ半透明にするしかないのでしょうか。もはや駒台を見ている場合ではなくなる。究極のソリューション。


さて、究極のソリューションを実装するには技術のみならず特殊な情熱が求められそうですが、
単にマウスを乗せて半透明にするだけなら、SFMLの機能を駆使して割と簡単に実現できます。

処理としては二段構え。

・マウスが乗っているかどうかを判定
・スプライトの色のアルファ値を変更


>・マウスが乗っているかどうかを判定

マウスの位置は、

Vector2i mousePos = sf::Mouse::getPosition(window);


で取得できます。

window は 描画中の sf::RenderWindow です。ちなみに省略するとデスクトップ全体でのマウスの位置になります。
マウスの位置がわかったら、その位置のピクセルを取得して、何らかの色があれば「乗っている」と判定することとします。
なお、そのピクセルとはウィンドウ自体のピクセルではなく、対象の立ち絵のスプライトの画像のピクセルです。

スプライトのピクセルを取得するには、

// sprite からテクスチャ(の参照)を取得して、
sf::Texture *texture = sprite.getTexture();

// 画像データを取得して、
sf::Image image = texture->copyToImage();

// 画像上の座標を指定。
sf::Color pixel =  image.getPixel ( x, y );


ちなみに sprite は sf::Sprite です。
最後の getPixel に渡す x と y が何なのかと言えば、先に取得しておいたマウスの mousePos.x と mousePos.y ……
と言いたいのはヤマヤマですが、これはウィンドウ全体でのマウスの位置なので、
これをスプライトの表示座標を考慮して足したり引いたりして調整した値を x および y とします。
そこは天才プログラマー的にゴニョゴニョと頑張るところですね。ファイト!

で、頑張って取得した pixel というのはつまり色情報なので、r、g、b、aの各値を持っています。
この中の a つまりアルファ値が 0 より大きければ「色つきのピクセル」という判定で大体オッケーなんじゃないでしょうか。

if ( pixel.a > 0 ) {
/*
    色つきのピクセルにマウスが乗っている場合の処理を書く
*/
}




>・スプライトの色のアルファ値を変更

スプライトの色自体は、sf::Color の値を渡せば設定できます。

sprite.setColor ( color );


逆に現在の色値を取得するには getColor() です。実にわかりやすいですね。

で、元のRGB要素を変更せずにアルファ値だけを変更するならば、

sf::Color color = sprite.getColor ();
color.a = color.a / 2;
sprite.setColor ( color );


でな感じでイケます。
しかしこのままでは一度変更すると半透明になりっぱなしというか、マウスを乗せている限り透明っぷりが加速してしまいそうですので、
元の色値は別の変数に保存しておいて、描画した直後に元の色に戻しつつ、
毎フレーム、マウスオーバーの判定フラグに入れて管理するのが泥臭いながらも素直で楽な実装かなと思います。

/*
以下、ウィンドウの描画ループのつもり
*/
........
........
........
このへんに上記のマウスの位置のピクセルを取得する処理を書いたつもり
........
........
........

bool isMouseOver = false;

// 色つきのピクセルにマウスが乗っている場合
if ( pixel.a > 0 ) {
	isMouseOver = true;
}

sf::Color color1;

// マウスが乗っているならば描画前に半透明にして
if ( isMouseOver ) {
	color1 = sprite.getColor ();
	sf::Color color2 = color1;
	color2.a = color2.a / 2;
	sf::Color color1 = sprite.setColor ( color2 );
}

window.draw ( sprite ); // 描画

// 色を戻す
if ( isMouseOver ) {
	sprite.setColor(color1);
} 


今思ったのですが、上のサンプルはサンプルというわけで全部の処理をベタっと書いてますが、
これなら別に isMouseOver のようなフラグは使わなくても、
if ( pixel.a > 0 ) の時点で「マウスが乗っている場合」と「乗ってない場合」で分ければよさそうですね。

ただ、実際には更新処理と描画処理を別メソッドに分けている場合があろうかと思います。
その場合はマウスオーバーの判定は更新メソッド側に、描画関連の処理は描画メソッド側に書くことになると思われますので、
更新メソッド側での判定結果をクラス変数のフラグに入れておくのが素直でありましょう、というわけでこうなりました。

具体的な実装の加減については好みの世界ですね。
上記はあくまでも日本一SFMLに詳しい天才プログラマーである私による模範例ということで、ありがたく鵜呑みにしていただければと思います。


はい、そんなわけでいよいよ開発日誌っぽくなって参りました。
というか、こういうのはプログラミングのページに記事として書いたらいいのではないのか。
日本一SFMLに詳しい天才プログラマーとして、ありがたい情報をみなさんにお伝えするギムがありますからね。
元気が余ってたら頑張りますので、ご期待ください。




ところで話は変わりますが選挙ですね。

私の住んでいる地域でも先日、地方選がありました。
で、別に結果自体についてどうこう思うことは特にないのですが、相変わらずの低い投票率
今回の具体的な数字はちょっと見当たらなかったのですが、投票数と有権者数から推定するに、大体40%ちょい上ぐらいだと思われます。
この調子で一桁台に突入するぐらいまで下がれば、それはそれで面白そうではありますが、
今のところ、そこまで極端なことになる機運というものもなく、相変わらず、一部の「関係者」のみで結果が左右されている状況のようです。

投票率が低いとは言え、投票をしている人自体は相変わらず一定数いらっしゃるわけですよ。
じゃあ、一体どんな人が投票場に足を運んでいるのか?

今回の私の住んでいる地域の投票結果を見ていて、一つ面白いことがありました。
得票数はほぼ全体的にバラけていて、どの候補者さんも大体5000~10000票ぐらい獲得しておりました。
そんな中、一人だけ180票ぐらいの人がいらっしゃる。

この差は一体何なのか?

大多数の人にとっては、政治も選挙も興味のないことだと思うのですよ。
当日、投票場に足を運ぶにしても、そんなに深く考えて投票するわけではないでしょう。
で、全体的に票がバラけるというのはわかります。が、特定の人だけ極端に少ないというのは一体どういうことなのか?

選挙の時期になると郵便受けに配布される新聞の号外みたいな公報があるじゃないですか。
あれを見る限りでは、その人だけ特に何か問題があるようには私には思えませんでした。

おそらく政治家としては無名の人なのだろうとは思います。が、そんなことは、大多数の住民にとってはどうでもいいことのはず。
大多数の住民にとっては、誰が無名で誰が有名なのかさえ区別がつかないはず。私だってつかない。

だから、普段は政治や政治家に無関心で、選挙のときだけ軽く情報をナナメ読みして投票にだけは一応行く、
という人にとっては、その特定の人が政治家として無名だからと言って、その理由で選択肢から除外する、ということ自体が起こり得ないことのはず。

ということはつまり、
投票を実行したのは、いわゆる地盤て言うんですか? 何らかの形で特定の候補者に直接あるいは間接的に関係のある人が大多数であり、
「普段は政治や政治家に無関心で、選挙のときだけ軽く情報をナナメ読みして投票にだけは一応行く」
という層の人はほとんどいなかった、投票自体に行かなかった、と思われます。
だって、そういう層の人たちは、特定の政治家に義理があるわけでもなんでもなく、そもそも誰が無名なのか有名なのかという先入観もないはずで、
その無名の人にだって票を入れる可能性があるってことです。
そういう人たちがもっと投票場に足を運んでいれば、
その無名の人にだって、もう少しぐらいは票が入っていたはず。ここまで極端な差は出なかったはず。

結局、選挙に興味のない人は投票自体に行かないし、
だからこそ、いくら選挙を繰り返しても、既存の政治活動の範囲内でしか顔ぶれが回らず、
選挙に興味のない人は、ますます選挙に興味をなくし、
既存の政治活動の世界の外から立候補しても票がもらえる可能性は閉ざされて、
だからこそ、いくら選挙を繰り返しても、既存の政治活動の範囲内でしか顔ぶれが回らず、
結局、選挙に興味のない人は投票自体に行かなくなり、
だからこそ、いくら選挙を繰り返しても、既存の政治活動の範囲内でしか顔ぶれが回らず、
選挙に興味のない人は、ますます選挙に興味をなくし、
既存の政治活動の世界の外から立候補しても票がもらえる可能性は閉ざされて、
だからこそ、いくら選挙を繰り返しても、既存の政治活動の範囲内でしか顔ぶれが回らず、
結局、選挙に興味のない人は投票自体に行かなくなり、
だからこそ、いくら選挙を繰り返しても、既存の政治活動の範囲内でしか顔ぶれが回らず、
選挙に興味のない人は、ますます選挙に興味をなくし、
既存の政治活動の世界の外から立候補しても票がもらえる可能性は閉ざされて、
だからこそ、いくら選挙を繰り返しても、既存の政治活動の範囲内でしか顔ぶれが回らず、
結局、選挙に興味のない人は投票自体に行かなくなり、
だからこそ、いくら選挙を繰り返しても、既存の政治活動の範囲内でしか顔ぶれが回らず、
選挙に興味のない人は、ますます選挙に興味をなくし、
既存の政治活動の世界の外から立候補しても票がもらえる可能性は閉ざされて、
だからこそ、いくら選挙を繰り返しても、既存の政治活動の範囲内でしか顔ぶれが回らず、
結局、選挙に興味のない人は投票自体に行かなくなり、
だからこそ、いくら選挙を繰り返しても、既存の政治活動の範囲内でしか顔ぶれが回らず、
選挙に興味のない人は、ますます選挙に興味をなくし、
既存の政治活動の世界の外から立候補しても票がもらえる可能性は閉ざされて、
だからこそ、いくら選挙を繰り返しても、既存の政治活動の範囲内でしか顔ぶれが回らず、
結局、選挙に興味のない人は投票自体に行かなくなり、
だからこそ、いくら選挙を繰り返しても、既存の政治活動の範囲内でしか顔ぶれが回らず、
選挙に興味のない人は、ますます選挙に興味をなくし、
既存の政治活動の世界の外から立候補しても票がもらえる可能性は閉ざされて、
だからこそ、いくら選挙を繰り返しても、既存の政治活動の範囲内でしか顔ぶれが回らず、


つまり天才プログラマー的に言うとこういうことですよ。

現状 = ドウショウモナイ;

while ( 現状 == ドウショウモナイ ) {
	結局、選挙に興味のない人は投票自体に行かなくなり、
	既存の政治活動の世界の外から立候補しても票がもらえる可能性は閉ざされて、
	だからこそ、いくら選挙を繰り返しても、既存の政治活動の範囲内でしか顔ぶれが回らず、
}


「既存の政治活動の世界の外から立候補しても票がもらえる可能性は閉ざされて、」
という処理が無限ループに含まれているというのが恐ろしいところです。
結局、どこを切っても現状はドウショウモナイまま変わらず、ループの外に出られない。
閉塞感、という言葉さえ、もはや使い古されております。本当にドウショウモナイ。

この手の話をすると「じゃあおまえが立候補しろよ」みたいなことを言う人がいたりもしますが、
これに対しては「じゃあ投票してくれるのか?」の一言です。
結局そんな気すらないから、つまり、ご覧の有様ってことです。本当にドウショウモナイ。

なお、私が立候補すると世界中からン百億人の私の大ファンのみなさんが応援に押し寄せて
ご近所が大混乱に陥ってしまうことが火を見るより明らかですので、
みなさんの平穏な暮らしを守るために、立候補は差し控えている次第です。人気がありすぎるのも困りものですね。

それとも案外、みなさん現状に満足してらっしゃるということだったりするのでしょうか?
それならそれでいいのですけど。
しかし、そんなことはないでしょう。決してないでしょう。
なぜそう言い切れるのかと言えば、得意のイマギナティオーンで明確に霊視したからです。この私の霊能力を見くびってもらっては困る。

満足しているわけではなく、鬱屈した不満を押し付け合っている。
表面的には穏やかでも、そのようなサイキック地獄絵図が今この瞬間も世間にて絶賛展開中です。
なぜ私にそんなことがわかるのかと言えば、得意の以下略です。見くびってもらっては困ると言ったハズ。

現状に不満があるのなら、無名の人にこそ投票してみると面白いんじゃないの?
と思うのですが、そもそも投票に行く気自体がない人の脳を操って投票に行かせることもできず、ドウショウモありません。

矛盾しているというか、不可解ですらある。
誰が当選したってどうせ同じだとか、野党が頼りないだとか、選択肢がないだとか、いろいろ言いますが、
じゃあ無名の人にこそ投票するのかと言えば、そのようには行動しない。

自分一人が投票したってどうせ結果は変わらない、というのは、そのとおりかもしれません。
そして、そう思って投票に行かない人が多いからこそ、実際にそうなってしまう、ということもまた事実でありましょう。
悲観的な予測が、悲観的な現実を、実現させてしまっている。
まさに夢は叶うってやつです。
そういえばみなさんそういうの大好きなんでしたっけ。なるほど。やはりドウショウモナイですね。


なんでしょうね。
こういう「空気感」のようなものに対して、一体何をどうすればいいのか?

たとえどんなに「正しい」ことを言ったとしても、
「でも、みんなはそうは思ってないよね」の一言で全否定です。
結局何を言ってもドウショウモナイ。
その「みんな」というのは誰のことなのか?
「みんな」はさておき、あなた自身はどう思うのか?
と言いたいところではありますが、そういう対話自体が成立しないという事実にこそ問題の根源がある。底知れぬ闇がそこにある。
おっと、底知れないのにそこにあるとは今日も私の天才っぷりは誰にも止められないようですよ。


>「みんな」はさておき、あなた自身はどう思うのか?

ここのところが、いわゆる民主主義が前提とするところであろうと思われます。
しかし、その前提自体が間違っているのではないかとさえ思えてきます。
外国のことはよく知りませんが、こういう傾向は別に日本が特に、というわけでは必ずしもなさそうです。

一人一人が自立した自己自身である、という人間観自体が、そもそもファンタジーなのではないのか?
民主主義という迷信。
他人に流されずに自分で判断しましょう、などとは言いますが、
そもそも、そこに何らかの思い違いがあったりするのではないのか?
そのようではない人を批判して、そのようになりましょう、という。それ自体が、何かの勘違いではないのか?
しかし、じゃあ一体何なのか?
物質世界という舞台で人体たちが踊っている。その舞台裏で人体たちを動かしている仕組みは一体どのようなものであるのか?
果てしなく不可解ながら、おそらく地球上に人間として生きている間には知りえないことなのでしょう。

> 民主主義という迷信。

迷信ではあるかもしれませんが、それでも、大体において納得感を得やすいシステムではあるはず。
「どうせオメーラは何にもわかんねーんだから」と言って誰かに独裁されるのではなく、
「一応みんなで決めたこと」になっている方が納得はしやすい。
しかし、だから結局「仕方ないじゃん」という諦め感にもなってしまうのでしょうか。
でも私は消費税10%に賛成した覚えはありませんよ?
今回も地方選ながら、消費税10%に反対を表明している候補者に投票しました。10%だなんてそんなことはこの私が認めません。このやろ〜。


別に選挙に限ったことではなくてですね。このドウショウモなさ。

政治じゃないですけど、私、今まで結構いろいろやってきたんですよ。やろうとしてきたというか。
しかし世間は相変わらずです。
別に世界を変えるだとか、そんな大それたスケールじゃないにしても、多少は賛同を得られてそれなりの動きを形成できる、
ぐらいのことは期待してもいいような気がしてたんですけど、しかし、何をしてもダメでしたね。
私の考えややり方自体にそんなに大きな間違いがあったとは、今でもあまり思っていません。
別に世界中の人が私の斬新なアイデアにコロっと入信してくれるなんて思ってたわけではないですけども、
現状の中で不満を抱えている人は確実にいて、そうした人たちの不満を解決しうる方策ではあったはず。
じゃあそうした人たちが積極的に賛同してくれたかと言えば、まったく全然ダメでしたね。
別にアイデアコンテストというわけではないので「同じようなことを考えてるのはおまえだけじゃない」なんて言われても困る。
私だけじゃないなら、じゃあ賛成してくれるってことなのかといえば、もちろんそうはならない。
私の考えややり方に間違ったところがあると思うなら、積極的に批判を受け付けるつもりでオープンにもしていたつもりですが、
正面から批判をする人というのはほぼゼロ。たまに冷笑的な反応があればマシな方。
結局、キミたち自身がそんな態度なのだったら、何をどうしたって、ドウショウモナイ。そうとしか言いようがない。

> 私の考えややり方自体にそんなに大きな間違いがあったとは、今でもあまり思っていません。

間違っていたところがあったとすれば、
「正しいことを言えば正しい結果になるはずだ」という幻想があった、ということです。

"人" が集まっている "この世" というものは、もっと何か、得体の知れない仕組みで動いている。

それを「人情」だとか「愛」だとか、綺麗な言葉で表現するのもよいでしょう。
そうしたことを理解できないことは、非常識なことであり、人の心の機微がわからない唐変木であるというわけです。
まさに「空気が読めない」ってやつです。

はい。だからその「空気感」ってやつが、まさに得体が知れないってことですよ。

何でキミはそう思うの? キミ自身は本当のところどう思ってるの?
そんなこと言ったって……ゴニョゴニョ……じゃ、じゃあお前が立候補しろよ! どーせ誰も投票しないけどな! ヘンっ!!

はい。ごめんね、気を悪くさせるようなこと言って。
ただ一つわかって欲しいのは、私はあなたを嫌な気分にさせるのが目的だったわけでは決してないってことです。
私は少なからず縁のあった人たちを嫌な気分にさせてしまっただけなのでしょうか。

それにしても得体が知れない。
"人" が大勢いる "この世" の中で、その "人" 自身は、何を願ってそこにいるのか?
すべての人が幸せであってくれるといいのに。

何か得体の知れない呪いが舞台裏からこの世をドウショウモなく縛っているように思えてなりません。
本当のことを知りたい。

 

(再掲ここまで)

 

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ゲーム制作日誌再掲:2019/04/06 より

■ 制作日誌再掲:2019/04/06 より(http://www.site-a.info/text/2019-04-06_0.html

マインドルの対戦パート作成

学園モノと言えばマインドル。



いよいよゲームっぽくなって参りました。
そういえば、マインドル自体の画像を載せるのはこれが初めてなような気がします。
ずーっと全宇宙で私しか知らない状態だったというわけです。
宇宙で私の次にマインドルを見ることができるなんて、あなた方は本当にラッキーですね。

ゲームの内容はさておき、左側に立ってる人が対戦相手のキャラ、ということです。
わかりますよね? わかって欲しい。愛するあなたにわかって欲しい。

左右の位置については、わりと悩みどころではあります。
格闘ゲームとか落ちゲーなんかだと、大抵、左側がプレイヤーですよね。
横スクロールのアクションゲームでも、進行方法が「左→右」の場合が多いような気がします。
ただ、将棋系のゲームだと、大体、右側が自分の駒台になっているはず。すると相手キャラは左に配置、ということになる。

というわけで右側がプレイヤー(の駒台)。左側が相手キャラです。
どっちでもいいと言えばどっちでもいいですよね? はーい、どっちでもいいでーす。うむ。
今さら変えるのも面倒なので、慣れていただくこととします。

ただ、通常時はアングルが基本的に左向きなのですよね。



対戦イベントのときに逆向きになるのはどういう了見なのか?
では、こういうのはどうでしょう?
通常時は向き合っているというより、同じ側にいて並んでいる。
対戦時は盤面の向こう側に移動して、向き合う。
うむ。それだ! これで皆の衆も納得してくれることでしょう。

ちなみにペアバトルのときには味方キャラは右の駒台側に、左向きアングルで表示される予定。
うむ。つじつまが合って参りました。未来は明るい。


それからもう一つ、立ち絵が駒台に重なって邪魔じゃないかどうかが少々心配です。
これも今さらレイアウトをいじるのは精神的にツライ。
最悪、マウスを乗せると半透明になる、みたいな小粋な機能を追加しましょうかね。そんな元気がありますように。


着手時にカットインが発生したりもします。気合を受け止めてください。



画像は今のところ立ち絵の使い回し。
カットイン自体はLuaでいじれるようにしてあるので、余力があったら作り込むことにして、
さしあたりはこんな感じで突っ走る所存です。


試合中に喋ったりもする。



カットイン含め、試合中のキャラクターの挙動はLuaで制御することにしています。
例えば「詰みを読み切ったときのセリフ」とか「n手目で自分が不利なときに表情を変える」みたいな。
結局全員同じパターンになってしまいそうな気もしますけれど、
こういう形にしておけば、後でどうにでも変更できる、というわけで、精神的に気楽ではあります。
あんまり悩まずに突っ走るには好都合。実際に突っ走る精神エネルギーがあるかどうかはさておき。

ちなみにスクリプトにエラーがあるとエラーメッセージをしゃべり出してロボロボしい感じになるという楽しいオマケつき。



セリフなどの挙動とは別に、思考処理のAI自体はC++の別モジュールになっていて、
対戦相手のキャラが自分の手番のときに、設定されているAIに問い合わせる、というような処理です。

というわけで、ゲームの思考AI自体は現状のまま後回しとして、
さしあたり、ストーリー中のイベントして、セリフなどの挙動をスクリプトに落とし込む作業をしているところです。
最悪、指し手の内容は全員同じでも、「完成」と言い張るための表面的な体裁は整いますからね。おぬしもワルよのぅ。

ちなみに現状のAIの強さは、ブランクのある私よりは結構強いぐらいです。
こういうのは強さを追求するとキリがないですが、強さ自体に関しては、多分、現状で充分かなと思っております。
この手のゲームが得意じゃない人にとっては、これでも強すぎるぐらいなんじゃないかなという気がします。
というか、対戦イベントをクリアできなくてストーリーの続きが読めない、ということのないようにしたい。

問題は、たまに長考が発生することと、キャラごとの棋風の差を出しにくいことです。
長考と言ってもせいぜい10秒ぐらいですが、生の人間同士ならさておき、
画面の前で10秒間待たされるというのは、ゲームとしていかがなものか。10秒も何もせずに座ってたら悟りが開けてしまうじゃないですか。

棋風については現状でも、ある程度、設定ファイル上で読みの深さや特定の形状にバイアスをかける、
みたいなことはできるのですけど、これだけだと、見た目上「わかりにくい」ですからね。
序盤の駒組みを使い分ける、みたいな設定ができると「わかりやすく」なるのかな。
さて、どうしようかな。天才プログラマーとして頑張らないとイケませんね。ともかく、そのへんは後回しということで。


そんな感じで、今週は、対戦イベント回りのシステムを作り直しておりました。
死ぬほど久々にCode::Blocksを起動して死ぬほど久々にソースを見て、内容を全然思い出せなくて死ぬかと思いました。
3日前のソースは他人のソースと言いますが、3日どころじゃないですからね。もはや前世の記憶。何度か死んだらしいぞ、と。
間違いなく私が書いたソースではあるのですが、だからこそ、自分で思い出さない限り誰にも教えてもらえない。
全宇宙でただ一人、私がヤルしかない。この追い詰められ感がたまりませんね。ドキュメントを残しておくなど軟弱。

ともかく上記SSのような感じのことは実装できる状態になりましたよ。めでたしめでたし。
あとは同じパターンの設定ファイルをコピペすれば全対戦イベントやっつけ完了!
……と言いたいところですが、本文によると他にも特殊な試合形式があるらしいじゃないですか。
ペアバトルとか、口出しモードとか、相談バトルとか。
いつもながら本文担当の人は勝手なことばかり言ってくれますね。天才プログラマー使いが荒い。
というわけで、もう少しシステムの拡張をガンバりますよ。できるかな? ドキドキ。できなかったらご愛嬌。




ところで話は変わりますが、ついにジオシティーズが終了してしまいましたね。
よく拝見していたサイトの中には、そのまま消滅してしまったものもあります。

保存しておきたいものについては、直前にwgetで手元に保存しておいたのですが、
管理人ご本人が復活させる意志がないのに私が勝手にネットに上げるわけにもいきません。交流があったわけでもないですし。
さみしい話ではあります。

というか、いつの間にか「個人ホームページ」というものを、あんまり見かけなくなってしまいましたね。
ブログやSNSの方が手軽だから、というのは理解はできるのですけれども。
ただ、純粋に手軽で便利だから、というだけでなく、
何か、こう、ワードプレスフェイスブックで情報を発信すること自体がモダンでオシャレなのダ!
みたいな風潮があるような気がして、それはちょっと本末転倒なんじゃないの? とは思わないでもありません。
それを言い出すと、かつての「個人ホームページ」も同じだったと言えば同じだったかもしれませんけど。

しかしワードプレスってそんなにイイものなんですかね? なんだか、うさんくさいイメージしかないんですけど。
検索エンジンで何かを検索すると、上位に出てくるのは大抵Naverまとめかワードプレスで、
「あなたは損をしている!」だとか「いまさら聞けない!」だとか、神経にさわる鬱陶しいタイトルがずらーっと並ぶ。
その内容はWikipediaからコピペしてきたようなテキストを切り貼りして、最後に「いかがでしたか?」のパターンです。
おかげで検索エンジンが使い物にならない。
有名な本からの引用があったりしますけど、おまえその本読んでないだろ、っていうね。
本文と関係ない画像が多用されていたりするのも、いかにもアヤシゲです。
札束の画像とか、サラリーマンふうの人が頭を抱えている画像とか、いら○とやさんの素材とか。
最近、い○すとやさんの素材を見かけるたびに拒絶反応が起きてしまうんですけど、どうしてくれるんですか。
そういえばRPGツクールでアレックス症候群てのがありましたね。
しかし、それを言うならコミPo!症候群というのもあるのかもしれません。人のこと言えないじゃないですか。ドキドキ。
もちろんワードプレス自体に罪があるわけではないですけどね。アレックス氏は無罪。コミPo!氏も無罪。私も無罪。あなたも無罪。

でも、単なる道具というより、結局、むしろ積極的に「ああいうふうに」ツクっちゃうのが、
何か、こう、「ネットを活用して情報発信してるゼ!」ってな感じなんでしょ?
ワードプレスを使うからと言って、わざわざ「ああいうふうに」ツクらなきゃならないってことはないはずなのですけど。
みんなアレックスが大好きなんですよ。仕方がないですね。
そんなわけで、私の中では「ワードプレスでツクってある=眉ツバ」という偏見が出来上がりつつありますので、
私に好印象を持ってもらいたかったらワードプレスは使わない方がいいですよ! 役に立つアドバイスをもらえてよかったのぉ皆の衆。

こんな時代だからこそ、「個人ホームページ」には頑張っていただきたいと思うのですが、
ジオシティーズが終了してしまったことですし、流れとしてはどうにもならないのかもしれません。

昔に逆戻りすることが正しいということにはならないとは思うのですが、
かと言って、現在の流れが、そんなに「善なる方向」に向かっているようにも、あんまり思えません。
表面的なオシャレっぽさにかけては洗練の度合いを高めつつも、内実は邪悪さを増しているように思えてなりません。
いかに人の「気をひいて」アクセスさせるか? たとえば「炎上商法」なんてのが一つの典型です。
不幸をふりまいてでも、注目を集めたもん勝ち、みたいなところがあります。
むしろその方がアクセスは集まりやすいという面はありますからね。そういうのが跳梁跋扈する必然性は理解はできます。

注目を集めるために変なことをする、ということ自体は昔からありましたけども、
そんなに、悪質なものではなかったはずです。わざわざ特定の人を傷つけるような乱暴なことを言って、煽る、みたいな。
そういう「煽り」が実現できてしまうというのは、SNSの負の側面ということでしょうか。

それから、今は昔以上にネットに「カネのニオイ」が漂ってますので、
注目を集めようとするにしても、必死さの次元が違うような気がいたします。
好きなことをやって笑いをとる、とか、そんなほのぼのしたものではなくなってます。
いかにして人に不安を植え付けて、アクセスさせるか?
昔はネット自体に「そこまでする」ほどの価値がなかった、ということではあろうかと思います。良くも悪くも。

ただ、今は昔と違って検索エンジンがカシコイですので、そんなに小細工をしなくても、
やがて関連するキーワードでそこそこ検索されるようになる「はず」なのですけど、
だからこそ、いかにして検索エンジンにスパムするか? を頑張ってしまうということにもなってしまうのでしょうか。
どうしょうもないですね。
検索結果の見出しタイトルの語尾に「?!」がついてるものはクリックする気になれません。


> かと言って、現在の流れが、そんなに「善なる方向」に向かっているようにも、あんまり思えません。
> 表面的なオシャレっぽさにかけて洗練の度合いを高めつつ、内実は邪悪さを増しているように思えてなりません。

じゃあ何が「善」なのかと言えば、話はわりと簡単でして、
要するに、誰もがそれぞれに、自分の好きなことを好きなようにしていて、
それで何の問題もなく、それぞれに幸せでいられる状態、ということです。
具体的にどういうものが、ということについては「それぞれ」ですが、
全体的なあり方としては、そういう状態が「善」以外の何物でもないはず。

インターネット自体はあくまで一つの道具に過ぎないとは言え、そういうものに資するポテンシャルを持っているはずで、
黎明期の熱狂というのは、まさにそういう意味合いのものだったはずですが、
じゃあ、現在、そういう状態が実現しているのかと言えば、むしろ逆行しているような感じがするわけです。

今、増えているのは、本人が好きで発信している情報というよりは、
「おまえはこれを見るべきなのだ」「見なければ損をするのだ」というような脅迫的なメッセージです。
息苦しい。

本人が自分の思いを書いているというよりは、世間的な「常識」を寄せ集めて切り貼りしていたり。
たとえば「今、○○が話題になっています」なんてのはよく見かけるフレーズですが、奇妙な表現ですよ。
「話題になっています」じゃなくて、おまえが今そうやって話題にしてるんだろ、っていうね。
つまり「私は」という個人の姿がそこにはないということです。

昔の「個人ホームページ」って、管理人が好きなことを好きなようにやってて、
理解はできなくても、なんか楽しそう、みたいなのって、よくあったじゃないですか。
今そういうのを全然見かけません。あるところにはあるのかな。あって欲しいな。
たまーに見つかるので、こそっとブックマークに入れる日々。
そのうちリンク集をつくろうかな。というか「リンク集」という単語の懐かしさときたら。

それから、特定のジャンルごとの集約サービスというか、ポータルサイトのようなものが林立して、
便利と言えば便利ではあるのですけども、型にハマってしまっているような感は否めません。
そのポータルがその分野のポータルとして権威を持つようになるにつれ、
敢えてそこを通して情報を発信すること自体が目指されるようになってしまうというか。
「個人」が「個人」として表に出る機会が削り取られている、と言えばいいでしょうか。
それの何が悪いのかと言われれば、何も悪くない、と言う他ないのですけれど。

ただ、あんまりワクワクはしません。

なんと言いますか、「キミらは大体こんな感じなんでしょ?」と最初っから言われていて、
言わせるだけにとどまらず、「はーい、その通りでーす」と喜んで従っていく、というような。

そうして衆生から情報を差し出させて、ポータルのトップページに
「人気の○○!」とか「注目の○○!」とか「よくアクセスされている○○!」などとケレン味たっぷりに貼り出すわけです。
私などはそういう空気に触れた瞬間にヘナヘナと気力が萎えてホームセンターにロープと踏み台を買いに行きたくなってしまうのですが、
でも、みなさんはそういうのが好きなんでしょ? みなさんの幸せは私の幸せ。みなさんがそれでいいなら私は何も申しません。

そこにワクワクがあるか? あるのでしょうか。あるのかもしれません。きっとあるのでしょう。
せめて規約に違反してガンガン削除されるようなものをビシビシ投稿していくぐらいの気概を持って楽しんでいただきたいな思います。
と、誰も読まないと思って好きなことを言う。


ではまた。
今日もあなたが幸せでありますように〜。あれ? これ久しぶりに言った気がします。今後とも言い続けますよ。

 

(再掲ここまで)

 

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ゲーム制作日誌再掲:2019/03/30 より

※元々ボカシをかけてはあるのですが、はてなに再掲するにあたり、念のため元の画像よりもさらにボカシを強めてあります。元画像をご覧になりたい好奇心旺盛なお友達は本拠地サイトへお越しくださいませ。待ってまーす。

 

■ 制作日誌再掲:2019/03/30 より(http://www.site-a.info/text/2019-03-30_0.html

マインドルの画像表示確認

学園モノと言えばお風呂上りのニアミス。



もはや「ニア」ってこともないですね。なんと言えばよかったでしょう?
それはさておき、グラフィック的にどんな場面の表現かは伝わりますよね? 伝わることでしょう。
みなさまのたくましいイマギナティオーンに期待しております。

というわけで全ルートの画像の表示確認が完了!
特に上記のSSの場面は繊細な調整が求められる高難度の場面であることがおわかりいただけることでしょう。イロイロな意味で。
その苦労に思いをはせて、ぜひぜひ感涙にむせび泣いていただきたいなと思っております。

今回の確認作業はキャラ3ルートです。
と言いつつ上記のSSの緑髪の人はキャラ2さんだったりします。不思議なこともあるものですね。

これまでに、キャラ1ルートとキャラ2ルートの表示確認をして、特に問題はありませんでしたので、
このルートも特に問題はないだろうとは思いつつ、念のために一通り動作させて読破。
長かった。
全14話。しかも大長編ばかり。読み通すだけで丸々一週間かかってしまいました。
こんなにたくさん入力したなんて、私は本当にエライですね。

さて、大きな問題はないものの、細かな問題はそこそこあるものですね。
画像自体の出来映えはさておき、一度表示してみれば絶対気付くだろ、ってレベルのミスを放置するわけには参りません。
やはり確認作業というものは、しておくべきものだなと痛感いたします。
ところで痛感って漢字で書くと痛そうですね。痛いのはイヤだよう。他に言い方ないのかな? 「痛」以外で。
熱感? 冷感? 圧感? 痒感? あ、実感でいいのか。それだ!

何の話でしたっけ。
確認作業の話。

心配してたのは、たとえば立ち絵が画面に収まらない、とか、そういう根本的な規格のズレですが、
そうしたことはなく、少なくとも体裁は整っていることは確認できました。一安心。ビクビク。
品質的に気になる箇所は少なからずありますが、それを言い出すと永遠に終わらなくなるので、
ともかく「完成」と言い張れる状態を目指して突っ走りますよ。

文章と画像が合ってない箇所はどうしようかな。
たとえば「床に布団を敷いて寝た」と書いてあるのに、画像ではベッドが表示されているとか、
「電柱の地中下工事が行われて見通しがよくなった」と書いてあるのに、画像では電柱が表示されているとか、
「空一面、雲で覆われている」と書いてあるのに、画像では快晴とか。
可能な限り文章を曖昧な言い方に変更して誤魔化したり、画像に修正を施したりはしてみましたが、
ある程度はご愛嬌ということで、みなさまのたくましいイマギナティオーンに期待しております。


それにしても、こうして久々に全編を通して読み直してみて、つくづく思うのですが、
一体全体、何なんですかね、このストーリー。めちゃめちゃ面白いじゃないですか!
こんなスバらしいお話をもうすぐ読めるようになるなんて、あなた方は本当にラッキーですね。

さて、まだ作業は終わりではありません。
次は何をしようかな?



私としてはスバらしいお話を読むことができて大満足なので、思い残すことはないかなって感じなのですけど、
このスバらしいお話をあなた方にもお届けして差し上げたいので、
もうしばらくこの世で作業を続ける予定です。私は本当に慈悲深いですね。

そんなわけで、どうしても修正しないとマズイ画像が2、3枚あったので、それだけ修正して、
その後、心置きなく対戦パートのAIの仕上げに突入する予定。
ストーリーは大長編ですが、実際に試合をする箇所は数えるほどしかないので、量的には絶望には及びません。
技術的なことについても、私は天才プログラマーですので、朝メシ前は言い過ぎだとしても、
朝メシをお腹いっぱい食べて二度寝して昼ご飯を食べた後って感じです。どっこいしょ。
地球滅亡の日までには間に合う見積りですよ。よかったのぅ皆の衆。


さてさて、他にも何かお伝えしたいことがあったようななかったような。
イロイロあります。イロイロあります。
ただ、とどのつまり、地球上の誰もが幸せでありますように、ってことです。
他には何にもありません。単純な話。
単純な話、なのですが、しかし、実際に地上で、肉体を持った個人として、他者の中で生きていると、
その単純なことが、言えなくなってしまいます。
そういうふうに、この世は、できているようです。
一体何なんでしょうね。

思い残すことがあるかどうかと言えば、この地上でどうしても何かを手に入れたいだとか成し遂げたいだとか、
そういう意味での思い残しというものは特にありません。
が、疑問は残ります。この世は一体何なのか。
何でまた、わざわざ、こんなもんがあるんですか?

言い方はイロイロあるでしょう。たとえば「この世は神のリラ(お遊び)だ」とかなんとか。
では、そう言われた瞬間、パッと魔法が解けて、この世が終わってくれるのか? くれない。
そんなふうに涼しげに言われても、やっぱり、相変わらず、この世が続いてしまう。
眠る。目を覚ます。まだ終わってねーのかー。このやろ〜。

どーうしよーっかなー。
さしあたり、あなたの幸せ願いつつ、
ではさて、相変わらず解けない魔法の中で、どーうしよーっかなー。

 

(再掲ここまで)

 

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ゲーム制作日誌再掲:2019/03/23 より

■ 制作日誌再掲:2019/03/23 より(http://www.site-a.info/text/2019-03-23_0.html

マインドルの画像表示確認

学園モノと言えばCGモード。



いよいよノベルゲームっぽくなって参りました。
ん? ノベルゲームっぽくする必要はあるんでしたっけ? しかしそれを言い出すと行き着く先は何も表示しない涅槃アプリ。
そんな難しいもんでもないし、CG作業が完了した今のタイミングでやっつけてしまいましょう。
というわけで上記SS含めて全3ルート分を一気にやっつけました。私は本当にエライなぁ。しみじみ。
CGの枚数自体は全208枚。シーンの件数としては全92件。こんなにあったのか。私は本当にエライなぁ。しみじみ。

それにしても予想以上に面倒くさくてビックリでした。
当初の見積りでは「CGモードを実装するぞ!」と心の中で念じれば、次の瞬間にはドロンッ! とCGモードが出来上がるハズだったのですけども、
どういうわけか、いくら念じても何も起きない。
仕方がないので、一枚ずつチマチマとスクリプトに設定を書き込んでいくという、地味で気の遠くなる作業となってしまいました。
念じ方に何らかの間違いがあったのでしょうか? 本当に不思議で仕方がありません。

しかし、せっかく天才プログラマーなのですから、何かうまい魔法を考えてみたら?
うむ。確かにここは血が騒ぐところ。ではさてどうしようか……、
と、ちまちま手を動かしながら考えていたら、いつの間にか全部終わってました。本当に不思議で仕方がありません。

ちなみに世の中のノベルゲームを製作してらっしゃるみなさんは、どうやってCGモードを作ってらっしゃるのかな?
あんまり気にしたことありませんでしたが、地味に面倒くさいですよ、これは。今後は涙なしにはCGモードを見ることができませんね。
それとも案外、名のあるスクリプトエンジンには、うまい具合に一瞬でCGモードを出現させる魔法が備わっていたりするのでしょうか?
たとえば「CGモードを実装するぞ!」と念じればドロンッ! とCGモードが出現する機能とか。最近の開発環境はよくできてますからね。
つまり、いずれにせよ、みなさんエライなぁ、ってことです。もちろん私もエライ。しみじみ。

ところで今ふと思ったのですが、
「お金の力で他人にやらせる」
というのは、ある意味で「念じてドロン」なのかもしれません。
「これが現代の魔法ってやつだよ。ギヒヒ」とか言いながら札束をうちわにしてバサバサ扇ぐんでしょ? 大人ってキタナイ!


それから、本文を動かしながらの表示確認はキャラ1とキャラ2の分が完了。



特に大きな問題はなさそうですが、たまに立ち絵の指定ミスがあるので油断ならない。たとえば夏服のシーンでいきなり冬服が混じってたり。
結局、実際に一通り表示させて目視しないと確認のしようがないので、なんだかんだと本文を通しで読破するようなことになっております。
で、久々に読み返してみると、なんなんでしょうね。このストーリー。めちゃめちゃ面白いじゃないですか!
もう私、このお話を考えた人のファンにならざるを得ません。ファンレターの宛先はドコかな? ドキドキ。
スクリプトの作業のときにも同じこと言ってたような気がしますけど、画像が入った状態で動かしながら見ると感慨もひとしお。
というか、当たり前のようにスルスル動いてしまうので、
ふ〜ん、こんなノベルゲームがあったのか〜、このネタ、私の案をパクってるじゃん、このやろ〜、などと、まるで他人事のように実感がありません。

さて、まだキャラ3ルートの確認作業が残っております。楽しみですよ。わくわく。
この素晴らしいお話を、一日も早く、あなたのお手元に届けたい。



ところで、これからどうしようかな。
もちろん、さしあたりは今やっているこの作業を完遂させるわけですけども、その後。
考えていることはいろいろとあります。
たとえば自殺とか、あるいは自殺とか、そこまではいかないにしても、せめて中間をとって自殺とか。または逆をついて自殺とか。
選択肢は無数にあって目移りするところではありますが、そんな中で一つ考えているのは、

「戦わないゲーム」

です。

今後作るとしたら、そういうものを作っていきたい。
世の中に「ゲーム」と名のつくものは数限りなく存在しておりますが、
ほぼ例外なく、何らかの形で

「戦うゲーム」

ばかりです。

今作業中のものもノベルゲームふうストーリーモードつきの「対戦型ボードゲーム」ですから、「戦うゲーム」です。
このようなものはこれで最後にしたい。いや、これはこれで別にいいのですけど、
ただちょっと、「ゲーム」と言えば「戦うゲーム」ばかり、という現状に、少しぐらいはノーと言いたい。

「戦うゲーム」という表現自体が同語反復なところがあって、むしろ「ゲーム」と言えば「戦い」です。
何らかの「戦い」をコンピューター上に実現することが「ゲームを作った」ことになる。
単にキャラクターを表示するだけでは「つまらない」のであり、じゃあどうすれば「おもしろい」のかと言えば、
キャラクターを操作して何かと「戦う」ようにすることで「ゲームらしくなった」ということになる。
むしろ「ゲーム」という言葉が「戦い」の別名になっていると言っても過言ではない。

ちなみにノベルゲーム自体はゲームと名のつく何か別のものという感じなので、これを含めると話がヤヤコシクなってしまいますが、
別に何か包括的なゲーム論を構築するのが目的というわけではなくて、
ここで問題にしたいのはアクションとか、RPGとか、はたまたボードゲームとか、
ストーリー以外の部分で、プレイヤーが操作をして、何らかの目標に向けて頑張る的な、そういう要素についてです。

で、その「何らかの目標に向けて頑張る」と言うのが、結局、何なのかと言えば、戦い、つまり、

「他者をやっつけて、自己の利益を上げる」

ということになります。

その世界に、自分以外に登場する存在は、2種類しかありません。

・敵(倒すべきもの/邪魔なもの)
・利用できるもの

そういう世界の中で、手段を選ばず、利用できるものは何でも利用し、他者をおしのけて、自己の利益の最大化を目指す。

アクションであろうが、パズルであろうが、RPG的なものであろうが、
およそ「ゲーム」と名のつくものは、ほぼ例外なく、そういう内容です。
(ちなみに「手段を選ばず」という部分に自分なりに制限をかけるのは「縛りプレイ」という特殊な遊び方、ということになる)

一応、「正義の味方」ということになっていたり、「仲間と協力」という要素があったりもしますが、
やっていることは「いかに勝つか」であり、結局同じです。

> そういう世界の中で、手段を選ばず、利用できるものは何でも利用し、他者をおしのけて、自己の利益の最大化を目指す。

サイコパスですね。

もちろん「ゲームなんだからいい」ということになります。
「おまえこそ現実とゲームを混同してるんじゃねーの?」ということになります。
それは確かにその通りです。反論の余地は1ミリもありません。

ただ、なんか、「こういうの」(ばかり)が「楽しい・面白い」という「ことになっている」というのが、
なんか、奇妙だと思いませんか? 私は思います。

あくまでもゲームなのであって、現実とは無関係。
そもそも遊びなのであって、やってもやらなくてもいい。

そういうものを敢えて作り出す。
そういうものを敢えてプレイする。

で、だったら、具体的に一体何を、わざわざ、作り出して、わざわざ、やっているのかと言えば、
サイコパスごっこをしている。
「そういうの」が「楽しい・面白い」という「ことになっている」わけです。

「そういうの」が「娯楽」として提供され、「娯楽」として受け取り、
例えば「これで私はストレスが解消できた」などと判断を下す。

なんか、奇妙だと思いませんか? 私は思います。
だって、サイコパスごっこの一体何がそんなに楽しいのさ?
もちろん、人の感性はそれぞれですから、そういうのを楽しいと感じる感性を否定するつもりはないのですけども、
もうちょっと疑問を感じてもいいのではないかな、とは思います。

たとえば仮にですが、世の中のゲームがエロゲーばかりだったとしたら、
「ゲームだからって、必ずエロ要素がないとダメってことはないんじゃね?」と思いますよね。思いましょう。
別にエロを否定するわけではないけれど、そうじゃないものがもっとあってもいいんじゃないのかって話です。

そして仮にではなく、実際、サイコパスゲーばかりの世の中で、
「ゲームだからって、必ずサイコパス要素がないとダメってことはないんじゃね?」って思いませんか。思いますよね。思いましょう。
別にサイコパスを否定するわけではないけれど、そうじゃないものがもっとあってもいいんじゃないのかって話です。

「たかがゲームなんだから別に問題ない」というのは完全にその通りですが、
それ以前に、本当にそんなものを「楽しい・面白い」と思っているのか? という点は、疑問に付してもいいような気がいたします。

格闘ゲーム → 人を殴るなんてイヤですよ……。
RPG → 「敵」を倒して上がるレベルって一体何のレベルなの?
将棋 → 相手が王将を取りたがってるなら取らせてあげましょうよ!

などと書くと、まるで冗談のようではありますが、
要は人間としての「ヨロコビ」というものが、本当のところ、どこにあるのか? ってことです。

で、何が「本当」で、それが「どこ」なのかはわかりませんが、
かと言って、
「どうせオマエラは何だかんだ言って内心では "そういう" 欲望を持ってるんだろ?」
という悪魔の声に「はいはい、その通りでございますよ〜」と無力にクソマジメに従い続けなきゃならないってことはないとは思うわけです。

便利になった携帯デバイスで、歩きながら、あるいはバスを待ちながら、
寸暇を惜しんで何をしているかと言えば、そういう「悪魔の声」に「イエス」と言い続ける儀式に勤しんでいる、
というのでは、なんだか、あまりにも「思うツボ」で「クソマジメ」すぎる気がいたします。
あんまりオカルト的な言い方はしたくはありませんが、しかし、
これでは、いい加減ちょっと、人類全体のカルマがたまる一方なんじゃねーの、という気はいたします。
で、「ぁんだよ? たかがゲームだろ? おめーこそ現実とゲームの区別つけろやこの偽善者が!」とか言うんでしょ? ほらね、「思うツボ」だ!

とは言え、単に上記のようにシステムのプラス/マイナスを逆転させるだけでは、結局は同じになってしまうでしょう。
何かもっと根本的に違う別物が必要となるような、あるいは案外ちょっとしたヒネリで済むことなのか。
具体的にどうすればいいのかは、今のところは見えておりません。
結局、何も表示しない涅槃アプリを起動させて静かに瞑想しましょう、ってことになってしまうのかな。

ゲームは「する」ことです。瞑想は「しない」ことです。
さらに言えば生きるとは「する」ことです。
一番いいのは一切の「する」ことを止めることです。つまり自殺。
そうはせずに、あくでもこの世に生きて「する」ことを続けるのだと言うのならば、
その「する」ことを通して、それでも悪魔の手に堕ちない何かを。

 

(再掲ここまで)


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ゲーム制作日誌再掲:2019/03/17 より

■ 制作日誌再掲:2019/03/17 より(http://www.site-a.info/text/2019-03-17_0.html

マインドルの画像表示確認

学園モノと言えば選択肢。



選択肢を表示すると、ちょうど立ち絵の顔のあたりに重なってしまうんですけども、
これは別に問題ないですよね? うん、問題ないよ。ですよね。よかったよかった。迅速なご回答ありがとうございます。
持つべきものは耳元の生々しい声ですね。いつも大変お世話になっております。

それにしても、こうして実際に画像が入った状態で動かしてみると、なかなかノベルゲームっぽく見えるではありませんか。
見えますよね? はーい、見えまーす。やはり持つべきものは耳元の生々しい声。本当に頼もしい限り。
というかこれってノベルゲームなんでしたっけ?
もともとは対戦型ボードゲームにストーリーモードをつける、という感じの企画だったような。
なんだかすでに遠い昔のことですので、悠久の歴史の彼方に霞んでしまっております。

とは言え、まだ終わってはおりません。ここまできたからには完成へ向けて前進あるのみ。
上記SSの4番目の選択肢を選びたくて待ちきれない全国のお友達のためにも、誠心誠意努めて参る所存であります。


そんなわけで、前回から少々休憩を挟みつつ、
とりあえずメインキャラが3人いるうちの1キャラ分のルートの前半まで、画像の表示確認を済ませました。
最初は作業の段取りで手間取ったりはしましたが、確認だけですので、さっさと済ませて次へ進みたいところ。

確認の途中経過についてですが、たまに画像の指定ミスが見つかって、スクリプトを修正したり、
いまいちなクオリティの立ち絵が見つかって、今更どうしょうもないかな、と諦めたり、といった感じで順調に進んでおります。
その他、今のところ特に大きな問題はなく、
「おっ、なかなかノベルゲームっぽいじゃないか!」と、耳元の声と同意し合っている感じです。
これというのも今まで頑張ってきたからこそ。私は本当にエライですね。しみじみ。




それにしても、この世は相変わらずですね。
しまった。なんだか上から目線みたいな言い方だ。
しかし先日、久々にトリップに行ってきまして、帰ってきて、改めてそのように強く思います。
一体いつまでこの世はこのようなのか。

存在しなくてもいいはずなのに、わざわざ存在していて、
それで一体何をするかと言えば、わざわざ人間を不幸にするようなことを、さも意味ありげに続けている。
一体いつまでこの世はこのようなのか。そんなダジャレをいつまで続けるつもりなのか。

具体的個別的な問題に関して、言いたいことや思うことは多々あります。
が、具体的個別的なことについては、何も言う気になれません。
キリがありません。

ではもっと何か根本的なレベルで、何らかの取り組みが可能か?
個別の問題から距離をおいて、そうした方向を模索する。
しかしそれもまた非現実的な話です。

この世がこのようなのなぜかと言えば、特定の誰かが悪人だから、というわけではありません。
もっと全体的な話です。
ではさて、そうした観点で何かをどうにかしようと思うなら、社会の仕組みから変えなければならなくなり、
さらには国を別個に作るしかなくなり、行くつくところは、別の時空に新たな宇宙を創造する、という話になってしまう。
完全に非現実的な話です。
結局、ドウショウモナイ。

私なりにできることを、というふうなことについて、いくつか具体的な案があったりもします。
しかし積極的に意味のあることというわけではありません。
私がそれをしたからといって、何がどうなるというわけではない。
それに、仮に私のそうした行動が世間の注目を集めて、マネをする人が増えるなどということが起きたとしたら、
かえって悪いことになるでしょう。
どうせその活動を名目にして、人に優劣をつけたり、無益な論争や、人を不幸にするようなことを始めるに決まってるんです。
そしてもともとの私の活動も裏目に出るしかなくなっていく。

「どうせ……決まってる」という言い方をしました。敢えてそういう言い方をしました。
そうとしか言いようがないからです。

「どうせオマエラはその程度なんだろ?」とでもいうようなステレオタイプ的な種々のイメージが流布しており、
同時に、自分から自分をそのような枠に当てはめていく、ということが大流行しています。
結局「そういうの」が「意味のあること」ということになっているらしいと見える。
「そんなことないよね」が想像を絶する頻度でハズレとなることはすでにわかっていることです。

というわけで、私が何を言っても、何をしても、ドウニモナラナイものはドウニモナラナイ。
この世がこのようなこの世である限り、その内側で何をどうしても、ドウニモナラナイ。

どうしても人を不幸にせずにはおかないこの世。
え? それはおまえの心がけが悪いからですって? なるほど。やはり、どうしても人を不幸にせずにはおかないというわけですね。
え? タマシイの成長のためであるとかなんとか? なるほど。やはり、どーしても人を不幸にせずにはおかないというわけですね。

せめて私は、可能な限り、人を不幸にするようなことはしないでいられたらと思います。
せめて私は、苦しんでいる人の気持ちに寄り添っていられたらと思います。

しかし、とどのつまり、これが、これこそが、この世の道理に反することなのでしょう。

多くの人が上記のように思うようになれば、この世はよい世界になっていくのではないか?
そう思いたいところです。
しかし、どうやらそれは、楽観的すぎる見方と言わざるを得ないようです。

仮に私が上記のお題目をどこかで繰り返し唱えて、やがて世間に共感が広がり、
同じようなことを言い出す人が増える、とする。
ではそれで、この世がよい世界になっていくのか? なっていかない。むしろ悪くなる。
なぜなら、今度はそうしたお題目を名目として、人間の優劣を語り始めたり、
無益な論争や、人を不幸にするようなことを始めるに決まってるからです。

あるいは、観念的な理想としてはいいとしても、具体的な次元でのすり合わせで挫折するに決まってます。
例えば、私の場合であれば、例えばですが「騒音問題」を念頭において、
「わざわざ音を出すような行為は慎むべき」という発想があります。
が、世間の少なからぬ人々にとっては、真逆でしょう。
「音ぐらいのことで神経質になってガタガタいうのは未熟!」と思っている。
理想的なお題目は、そうした発想を強化するものとして作用するしかない。
すなわち、「人を不幸にするようなことはしない」は「音ぐらいのことで文句を言わない」になり、
「苦しんでいる人の気持ちに寄り添う」は「音を出す大義名分(世間の常識)に従う」になる。
例えば、「灯油巡回販売」は「自分で買いに行けないお年寄りのためなんだから我慢しろ」になる。
「だからと言って、わざわざ大きな音を垂れ流す必要はないでしょう?」と言うに至り、
「結局同じことの繰り返し」であると思い知る。

マイナスに対して、プラスの掛け算をすると、マイナスがさらに大きくなる、とでも言えばいいでしょうか。
結局、この世がこのようであり、どうしょうもない。
それに対して何をどうしても、やっぱり、どうしょうもない。

希望はどこにもありません。

そもそも存在しなくてもよかったはずの世界が、なぜか存在しており、
それで一体何をするかと思えば、わざわざ人間を不幸にするようなことをしている。

などと言えば、仮に話がある程度通じたとしても、
「だったら」というわけで、ではどうするのかと言えば、
「反社会的」な行動に身を委ねて「利己的」な「欲望」のために暴力的に振る舞うことが「善」だ、
とでもいうような粗暴な発想を助長することになってしまうでしょう。

希望はどこにもありません。

あるいはもう片方の極としては、
現に今、苦しい状況に直面している人を踏みつけにして、
「それはおまえが自分からわざわざ苦しんでいるのだ。おまえの心がけが悪いのだ。自己責任だ」
などと言った、「ニセ・スピリチュアル」でお馴染みの冷酷な発想に「イエス」と言ったことになってしまうでしょう。

希望はどこにもありません。

「うまい生き方」を見つけて、「いちぬけ」しては、過去の自分と同じような、そうでない人を見下す。
囚人が看守に「昇格」しただけ。
そもそもそこに収容所があるのはどういうわけなのか? 何も変わらない。

希望はどこにもありません。

そもそも存在すること自体に何の道理もないこの世で、
わざわざ人を不幸にするようなことが「この世の道理」で、
わざわざそれに自分自身を合わせて、自己や他者を不幸にすることが何か世間的に意味あることということになる。

希望はどこにもありません。


どうして、誰もが幸せでいられる世界じゃ、ダメなんですか?
だったら、なんでそんな世界を作っちゃったんですか?

やっぱり神とやらを殴るしかない。このやろ〜。


 

(再掲ここまで)


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ゲーム制作日誌再掲:2019/03/09 より

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マインドルのCG作成

学園モノと言えばいやだ! 絶対に行かせない!



手前と背後とで、同じ顔の人たちが2組いらっしゃる図画、というわけではなく、
胸にお顔をぐりぐりしていると表情が見えないので、物理法則を無視して両方表示するという大胆かつ高度な表現技法です。

つまり、先にこうなっているというわけです。



後ろ髪のギザギザが授業中に半分寝ながらノートの端にペンで描いたみたいな線なのは何故かと言えば、
見てのとおり、砂まみれになって汚れていることを反映して髪が乱れていることを表す高度な表現技法なのかもしれず、
あるいは、今回でCG作業がラストなのに、やっぱり最後まで絵が描けないままでしたってことなのかもしれず、
真相は後の時代の歴史家の手の解釈に委ねられることとなります。お楽しみに〜。

というわけで5枚組の超大作でした。私は本当に頑張り屋さんですね。



緑髪の人のお顔やお洋服の汚れは色を塗るのに失敗してこうなっちゃった、というわけではなく、
転んだりなんだりして汚れたり血が出たりしたよ、ということを表す高度な表現技法です。わかりますよね? わかってネ。
実際には文章がつくので催眠術が成立するものという見積りです。お楽しみに〜。
しかし、こんな有様でもメガネだけは無傷だというのですから、最近のメガネはよくできてますね。


さて、学園モノと言えばイベントの案内看板。


立看板はコミPo!に入ってた素材です。そこへ得意のGIMPスキルで文字を入れていく。
作業自体は今の私の手にかかれば朝飯前にお茶の子の手をひねるようなもの。混ざった。
お茶の子の手って何? そのようなことどうでもよいわヌハハのハー。どうですかこの意味不明かつ豪胆な余裕。
ではなぜ、この一枚が最後まで後回しになっていたのか?

これは、自分と同じ名字のお葬式の看板を街で見かけてドキッとする、という場面なのですが、
問題は、

名前を変更できるシステムになっている

ことです。

一体どうしたらいいんでしょうね? 誰か教えてください!
いつもながらスクリプトを書く人は後先考えずに勝手な指定をしてくれるものですね。困ったものです。
かくなる上は、看板の文字だけCGではなく、ソフトウェア的にフォントで表示しようか? 天才プログラマーの血が騒ぐぜ。ヌハハのハー。
わりと真剣にそれも検討したのですが、結局どう頑張っても不自然さが残ることになりそうです。せめて文字数が固定なら……。
こういうのって、頑張れば頑張るほど無理が目立つ案件です。このためだけに専用のフォントを同梱するのも気が引けます。
そのへんを見極めて諦めるのも天才プログラマーの力量というもの。うふふ。何がうふふだ。

というわけで、上記のように、名前の部分だけ、画面外に出す形で表示することとしました。
何しろ自分と同じ名字のお葬式の看板を見かけてドキッとするという場面ですので、
名前の部分を直視できない、という心の動揺がこの上なく的確に表現されることとなりました。素晴らしい。
システム的な制約を逆手に取っての高度な表現技法。私は本当に天才ですね。うふふ。何がうふふだ。


さぁ、いよいよラスト。
学園モノと言えば座禅。


コミPo!学園では座禅の実習がないみたいですが、もはやそんなことでは、この私を止めることはできません。

ともかく近いポーズを探して……。


別に座禅じゃなくてもこのままでいいんじゃない? という耳元の生々しい声を無視しつつ、
アングルをごにょごにょして、脚の素材を採取して、座禅っぽく組み合わせる。


ここまでくれば上半身はどうにでもなるというもの。
上記の脚ポーズをコピペして、なんやかんやとGIMPで魔法をかけてツナギ目をごまかせば……はい座禅! ガンギマリ中であることは一目瞭然。


なお、「座禅」という言い方をしてしまうと、目を閉じているのは座禅じゃないとか、
親指が離れているのは気が抜けている証拠とか、足首が異次元を突き抜けているのはグラフィックが雑な証拠とか、
いろいろと座禅業界のみなさんの警策が炸裂してしまうような予感もいたしますので念のために申し上げておきますと、
ここでは方便として「座禅」といいましたが、本文中では「座禅」とは一言も書いてないのでセーフです。ビクビク。隙ありバシーン! イタイぃぃぃ!!

もともとの予定では、シルエットだけの予定でした。
ただ、これだとちょっとわかりにくいかな〜、という心ニクイ配慮により、シルエットを表示する直前に上記の図画をお見せすることとした次第です。
シルエットだけだったらそんな難しくはなかったのですけども、
あなた方を愛するがゆえに頑張らずにはいられなかったというワケです。私は本当に慈悲深いですね。


というわけで、ついにCG作業が完了!
マジですか? どうやらマジらしいですよ。なんだか実感がありません。なぜでしょう?
ひょっとしてすでに死んでいるのかもしれません。それならそれでいいんですけど。
さしあたりまだ生きなきゃイケないというのだから大変です。どっこいしょ。

さて、これからどうしようかな。死のうかな。
なにはともあれ、画像的なデータがほぼ埋まったというのはメデタイことです。
ここまで来れば少なくとも完成の目処が立たずに頓挫、ということはないはず。本当かな? ドキドキ。

これでようやく次の作業に進めるかと思うと、いても立ってもいられません。
手が震え出し、血走った目がギョロギョロと絶え間なく動き、半開きの口からヨダレとともに意味不明の独り言が止まりません。
次の作業とは、もちろん自殺ですが、その前に是非ともやっておかねばならないのが、対戦モードのAIの仕上げです。
天才プログラマーの血が騒ぎます。手が震え出し、目が血走って以下略です。
ていうかプログラミングなんて死ぬほど久しぶりです。リハビリの必要があるんじゃなかろうか。ブルブル。

楽しいリハビリに入る前に、せっかく画像がそろったことですから、
実際のスクリプトで表示確認をしておこうかな。よし、そうしよう。これは楽しみですね。わくわく。
その上で、心置きなく自殺をする、と。完璧なプランですね。他に何かすることなかったかな? あったようななかったような。
いやー、疲れました。私ももう永くありませんね。



それにしてもこの世は闇ですね。

なんていうのかな、ぶっちゃけ、とどのつまり、
この世の森羅万象の一切は、「おまえの母ちゃんでーべそ!」と言うために存在しているじゃないですか。じゃないですかと言われても。

何か、何でもいいので、身近な物事を思い浮かべてもらうといいのですけど、
それって結局、
「○○○である。ゆえに、おまえの母ちゃんでーべそ!」ってことじゃないですか。じゃないですかと言われても。

人間を苦しめることを目的としている。
そんなはずはない、って気はすることはするのですけど、
でも、実際、やっぱり、「そのゆえに人間が苦しむ」ばかりです。すべて、実際、結局、そうなっている。
あえて言い切りますが、例外はありません。

どんなものも「そんなもの、なくてもいいのに、ある」
で、人間が苦しむ。
その「なくてもいい、ある」を「なければならない、ある」に塗り替えるためのエネルギーたるや、凄まじい。つまり煩悩です。

さらに詳しく見ると、つまり、一切は、

人間の可能性を制限する

という役割を持って存在している。

そうした「可能性の制約」ということの総体を土台として、「この世」が存立している。
そうした制約をすべて取っ払うと、「この世」のタガが外れ、無限の宇宙へと雲散霧消してしまう。

つまり、この世がこの世として、このように存在している、ということは、まさにダジャレであるとともに、
それ自体、何らかの「可能性の制約」が行われている、ということの、動かぬ証拠でもあります。

ところで今思ったんですが、辞書には書いてないことですが、
「おまえの母ちゃんでーべそ」の英訳って「son of a bitch」ですよね。まさにぴったり。
と思ったのですが、「おまえの以下略」は攻撃を仕掛ける側(強者)が言う台詞であるのに対し、
「son以下略」の方は、苦痛を受けて苦しんでいる側が言う台詞なような気がいたします。
単語的にはうまく対応してるっぽいのに、使い方が違う。これが文化の違いというやつでしょうか。

何の話でしたっけ?

だからつまり、この世は闇なのですよ奥さん。誰が奥さんだ。

つまり、結局、この世がこのようであるということは、ダジャレであるのみならず、
この世が「存在」する時点で、端的な必然として、このようであるということになる。この世は闇だ。
教会が先か、今日かい? が先か。いいえ、それらは同じ事象の裏表です。不即不離。不二一元。

無限の中へ解消することなく、存在している。存在とは「無限に対する制約」と言えるでしょう。つまり有限。
存在とは有限のことであり、つまり制約のことです。
存在 "させる" とは有限 "とする" ということです。つまり制約のことです。
だから製薬会社がグローバルな資本力でこの世を "制約" しているというのは、単なるダジャレとも言い切れない。いや、ここは言い切ろうか。

さらに、このことから、見えてくるものが、もう1つあります。
人間は、そもそも、この世の側に属するものではない、ということです。
なぜなら、だからこそ、制約して「この世」の範疇に閉じ込める必要がある、ということだからです。

この世では「この世」をこのように存立させようとする諸力が常に作用しており、
そこは人間に制限をかけて可能性を封じ込め続けている場所ということです。
我々は常に手枷足枷をハメられている。この世は闇であり人生は苦しみです。
この世がこのようなこの世である限り、解放はありえません。ただダジャレあるのみ。

なお、上記にいう「人間」というのは、
地上を歩いている個々の肉体およびそこに制限されるものであるところの自我存在、というような意味
ではなく、
この世における存在者である以前の根源的な主体者、というような意味です。
後者を前者から区別する意味で「霊」という方が便利かもしれません。
ただし、おばけの話じゃないですよと申し添えておかなきゃイケないのかな。
というか、そこですよ。こういう話をしにくくなっている、という世相がある。
その世相が、すでに、制約の典型であり「この世の闇」なワケです。制約について話すこと自体が制約されている。

この世がこのようなのはなぜか? というより、
この世だからこのようなのだ、と言わねばなりません。いずれにせよダジャレであることを免れ得ないと知りつつ。



何気なく外を歩くだけで、否応なく目に入ってくるもの、耳に入ってくるもの、肌をなで、体を押すもの。
例えば○○○とか、△△△とか、◇◇◇とか。
どうして、わざわざ、人に嫌な思いをさせるためのことをするんですか?
それも、さも善行であるかのような顔をして。
さも善行であるかのような顔をするということは、つまり、否定されることを否定する、ということです。
いわく、「おまえは理解が足りない未熟者である」とかなんとか。
つまり、いわゆる「常識」というやつです。
そういう「反撃」を用意して、誘うかのように、わざわざ、人が嫌な思いをするようなことを、する。

それが「世間を成立させている作用」です。
枠をハメ、枠に触れることを禁じ、ときには見せしめを行い、人間を閉じ込める。
そうまでして、そんな世間を存立させておく必要があるのか? もちろん、ない。
ない、からこそ、ある、かのように見せかけて、その見せかけを維持するための、恐るべき力が必要になる。
何も存在しなくていいのに、何もかもが存在している。無の中に有を維持するための、恐るべき、そして涙ぐましい力。
そこでは枠を飛び越える「自由」は厳しく制限されねばならない。

こうしたことは、単に現代の日本がそのようである、というだけのことではなく、
あるいは一部の特定の国家が独裁的で抑圧的である、というだけのことではなく、
そもそも、「この世」そのものの存在の、取り去り難い、性質、なのではないか、という気がいたします。
根本の部分に、そういう動因がある。そういう動因こそがこの世を存立させている。

で、こういうことを言うと、仮に話がある程度通じたとして、
「世の中そんなもんだ」とか「誰だって我慢してるんだ」とか「お互い様なんだ」とか言うんでしょ?
はい。この世は真っ暗闇ですね。

で、単にそういうような「お説教」を言うだけであれば、それらの文言そのものは、必ずしも悪いものではないのですよ。
「それ自体は、ある意味では、大体そうかもっすね」ぐらいの妥協は可能です。
ところがですね、信じ難いことにですね、そういう「さも道徳的」なことを言うと同時に、
わざわざ人に嫌な思いをさせるようなことを、わざわざ、するんですよ。わざわざ。
例えば○○○とか、△△△とか、◇◇◇とか。

で、こういうことを言うと、仮に話がある程度通じたとして、
「被害妄想だ」とか「おまえだって人のことを言えない」とか「許し合いが大切」とか言うんでしょ?
はい。この世は真っ暗闇ですね。

で、「仕方ない」とか言いつつ、わざわざ、そういうことをして、「仕方な」さを実現してしまう。
例えば○○○とか、△△△とか、◇◇◇とか。
はい。この世は真っ暗闇ですね。

なお、伏せ字にしているのは、個別具体的な社会問題に踏み込むつもりはないからです。あえて具体的には書きません。

というより、具体的個別的な社会問題に踏む込むこと自体、本質から逸れて「煙に巻かれて」しまうようなところがある。
この世には、さまざまな社会問題が無限に存在し、何を言っても解決しない。

共通している特徴として、どれも、
一見すると答えは明白なように見える。しかし、
「人によってさまざまな意見が」あって、「単純には善し悪しが決められず」
踏み込めば踏む込むほど、泥沼に足を取られて、苦しみが増大する。自己をも他者をも苦しめることになる。

例えば○○○なんて典型中の典型で、そんなもん、「@@@@@」で一発解決じゃないですか。
でもそれを言うと、必ず「******」と言う人が出てくる。
それはそれで、一つの意見、あるいは個人の事情としてわからなくもない。
じゃあ間を取って「#######」でどうですか? 両者の顔を立てるなら、これでバッチリじゃないですか?
でもそれを言うと、またまた必ず「%%%%%%%%%」と言う人が出てくる。
そろそろ伏せ字にするための記号がなくなってきました。
つまり、気がつけば泥沼ってことです。

そして問題は問題のまま放置され、
「さも道徳的」なことを旗印に掲げて、人間を苦しめることを、わざわざ、する、ということが横行する。
ただ横行するだけではく、「道徳的に」横行する。
そこで見かねて口を開けば、またぞろ泥沼シナリオの繰り返しです。

そういうふうにしかならない。
必ず、そうなる、ように、なっている。
「この世」には常に「問題」が存在し、人が苦しむようになっている。
この世の存立の基盤を成す、不可欠の支柱として、そのようになっている。
除去可能な「異物」として、ではなく。除去すると、この世自体が除去されてしまう、そのようなものとして。
そもそもの始まりから、「そう」なのでした。「そう」いうものとして、万物が始まったのでした。

それがこの世だ。

もうダメだ。いや、最初からダメだった。

この世は闇だ。

もうダメだ。いや、最初からダメだった。

どうしょうもない。

果てしなくドウショウモナイ。



と、思うと同時に、そんなはずがない、とも思います。
だって、おかしいじゃないですか。
なんでわざわざ人間を苦しめなきゃならないんですか?
結局そういうふうになっている、というのはわかります。
ただ、それが(この世の発生以前の)根本の願いだとは思えません。そんなはずはない。
なぜかと言えば、人間が「いる」からです。
つまりそれは愛なんじゃないんですか?
愛ゆえに悪をとか苦をとか、そんなヤヤコシイ胡散臭いものじゃなく、原初の、最初の一歩のこと。
無から有になった、その最初の、0.0000(略)00001の瞬間のこと。プリムム・モビーレ。

その始まりが「悪」であるとは、そんなはずはない。そんなはずはないんですよ。
だって、それを見て「よし」と思うんでしょう?
その後の紆余曲折は知りません。
ただ、最初の一歩は……。

しかし、そこまで遡って考えた上で、なお、やはり「この世がこのよう(ダジャレ)」という結論なのであれば、
それはもう、仮に原初の動因が何であれ、やはりドウショウモナイのではないか?
結局、一度滅んで、宇宙のどこか別の場所で進化を最初からやり直すしかないのかもしれません。
少なくとも今のままではそうなるでしょう。
仮に地球を一瞬でお布団とともに吹っ飛ばすボタンがあるとして、それを押したとしても、
どこか宇宙の別の場所で同じことが繰り返されるでしょう。大規模なダジャレの実演となるに過ぎません。繰り返しても寒いばかり。

存在というものが、そもそも悪の性質のものであるのか?
それとも、別の形式の存在というものもあり得るものなのか?

この瞬間も、異なる次元で、さまざまな宇宙(この世)が誕生し続けているのだとして……
そのすべてが結局「このようなこの世(ダジャレ)」であるのか?
それとも、そうとも限らないものなのか?
構造的に悪であるような「この世」ではない、別の存在の形というものもあり得るものなのか?
仮にそうなのだとして、じゃあ、我々が今こうして存在している「この世」を、今からどうにかする道はあるのか?
結局、我々が今こうして存在している「この世」については、ドウショウモナイのか?

存在の根源まで遡って、すべてを「ぐるん」とひっくり返すことはできないものなのか?
それは実のところ結局、一度滅んで、宇宙のどこか別の場所で進化を最初からやり直すということになってしまうのか?

何しろ、どうやら、ドウショウモナイ現状において、それでも生きている我々は、じゃあ、どうすればいいのか?
せめて可能性を知りたい。

私はあなたが幸せであって欲しいと思っています。思っていないかもしれませんが思っています。だってその方がいいじゃないですか。
私は私の嫌いな人が幸せであって欲しいと思っています。思ってないかもしれませんが思っています。だってその方がいいじゃないですか。
私は私を嫌っている人が幸せであって欲しいと思っています。思ってないかもしれませんが思っています。だってその方がいいじゃないですか。

なぜこの世はこのようなのか? 聞き飽きたダジャレが、それでも到底言い足りない。
この宇宙の誰もが幸せであってくれるといいのに。

 

(再掲ここまで)

 

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